教育と人の生き方、哲学、歴史(アカルヒメと歩む過去から未来)

令和2年5月24日、49歳にて「えっちゃん」こと「阿迦留姫(アカルヒメ)」と時を超えて再会し、それ以来再度行動を共にしています。 元進学塾英語講師、ウェブデザイナー、現在ベンダー勤務。 教育関連をテーマに人の生き方、哲学、歴史(古代史)など

非効率的なものにも大切なものがある(人間らしさを失わないために)

 

近所のショッピングセンターを歩いていると小学生くらいの子供たちが皆、iPhone11 pro だか 12 pro だか分かりませんが、10万円も15万円もするような最新型のスマートフォンを手に持ってワイワイと話をしている姿を見かけます。

 

私たちサラリーマンのお父さんはどれだけ給料を稼ごうとも、給料が入ればすべて奥さんにそのまま渡すわけで、最新のスマートフォンどころか、今日のお昼のご飯は勇気を振り絞って豪華に500円使おうかどうするか悩んだり、そんなレベルであって、正直なところ、最新の高価なスマートフォンを持つ世間の子どもたちが本当に羨ましい限りです・・

 

そんな私たちが同じく小学生の頃は、稲刈りをした田んぼで泥だらけになりながら、その辺に落ちていた木をバットにして野球をしたり、子供同士で殴り合いのケンカをしたりで、今の子供たちとは育つ環境が異なりましたが、それはそれで相手の痛みが分かり、時に傷つき、それらを肌で知ることが出来た、ある意味良い少年時代だったのかもしれません。

 

そういう私も今ではこの技術革新、文明の進化の恩恵を大きく受けている一人です。

世界中お互いどんなに離れていても、スマートフォン1台あればいつでもつながることが出来、ネット電話で声も聞くことが出来、そして画面でお互いの顔を見ながら話すことだって出来ます。これは本当に素晴らしいことだと思います。

 

少なくとも本州なら、スマホで注文すれば生活必需品から食べ物まで翌日(大都市圏など地域によっては当日)自宅まで届き、図書館や本屋さんに行かなくても分からないことがあればネットで検索すれば何でも答えが出てきていくらでも勉強ができる、そんな便利な、そして個で成り立つ世の中でもあります。

 

そしてまた、今まで包み隠されていた真実もネット社会で明るみになってきており、テレビや新聞による一部の既得権益者による世論の誘導も出来ない世の中となってきました。

 

その反面、ネットへの常時接続によってつながり続けることで心の安らぎが失われたり、匿名性が高いことなどによる心無いコメントの書き込みやいじめ、人工知能などの普及により人間が自身の頭で考えなくなったなどその副作用があることも事実で、コンピュータによる判断は人間の感情を徹底的に排除し、ビジネスの判断や人とのつながりなども「情」で判断することも少なくなってきました。

 

こういったハイテクノロジーにより変わりゆく世の中は、外に出て人と接しなくても自宅の一室でいながら誰とも顔を合わせることなく一人で何事も完結する世の中でもあります。

 

 

昭和戦後の高度経済成長期の時代、そして平成、令和の技術革新の時代の両方を生きてきた私として感じることは、それぞれの時代に良い面と悪い面があり、私たちは古くても良いものはどんなに文明が進化しても大切にしていかなければならないと、そのように思います。

 

メールやSNSでのやり取りなど、ビジネスでもプライベートでもお互いの顔が見えないとどうしても伝達内容が感情的になり、やり取りの内容がキツくなると言われます。

 

新型コロナのこんな時期に言うのも何なのですが、そしてこれは古い考え方なのかもしれませんが、パソコンやスマホ画面を通してではなく直接対面で会って顔を見ながら話をする、そこから人との感情的なつながりを大切にしたいと私は考えておりまして、

何事も効率化がすべて良いわけではなく、非効率で無駄があったとしてもそこにはそれにも勝る大切なものがあるものではないでしょうか。

 

便利な世の中、どのように文明が進化しようとも、私たち人間は道具、機械に振り回されず、感情でつながるという人間らしさを失わないようにしていかなければならないと、そのようにも思います。

 

 

本日も最後までお読みくださり、有難うございました。

 

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教育者の立場になってはいけない人たち(私たちが人に教える立場になった時)

 

以前から少し教育に関することを書かせて頂いていますが、最近は学校教育だけではなく、どちらかというと企業での人材教育について思うことが多く、時々このようなことを書かせていただいています。

 

いつも思うことなのですが、教育担当として就く者によって新人の従業員に対する評価は大きく異なるもので、そしてまた担当者によりその新人の成長度に大きく差が出るものということはその経験から明らかではあるのですが、

 

何よりも教育担当の選任を間違えると、次から次へと将来ある従業員を辞めさせていくことに繋がるため、それは本当に重要なことでもあります。

 

側で見ていても明らかに教育担当者の説明が不十分で分かりにくく、

 

それで新人さんも「分からないので再度教えて下さい」と、質問をすると怒られ、

 

だから仕方なしに聞かないままで仕事をするとミスをしてしまい、

 

そしてまたそのミスを怒られ、

 

更に古くからいる従業員が新人さん本人の聞こえるところで寄ってたかって悪口を言ったり、

 

そしてその新人さんをかばい、世話をしてフォローしようと別の者が横から救けに入ると、その救けに入った者自身も上から叩かれて追い込まれていったりと・・

 

私は思うのですが、どのような組織であれ、上に立ってはならない者が権力を持ち上に立ったり、教育する立場に立ってはいけない者がその地位に就いた時、組織全体がおかしくなり有能なものはそこを去り、逆に同じ波長のものだけが留まることになるという悪い流れが出来上がるのだと思います。

 

会社組織の場合などは「お金」というもので縛り付けることが可能ですから簡単には人は離れてはいかないでしょうが、それでも特に中間管理職の方々などは自分の意志ではないことを不本意ながら上の指示で、あたかも自分の意志のように下に対して話さなければならないという状況も多く、そのため上だけでなく下からも恨まれたりと、本当に大変な状況の方も多いと思います。

 

「より良くするために正しいことを」と、上に意見すれば自分が追い込まれ、懸命に頑張る下の子を応援しようとすると「甘い」とまた上から追い込まれ、「出来て当たり前、一つでもミスをすれば人としておかしい」と、さらに徹底的に人間性に触れられ追い込まれたり、

 

日本的経営では「同調圧力」という言葉がよく使われますが、「自分がどう思うかではなく上司がどう思うかを考えて行動せよ」と、私自身も長年そう言われて今まで来ました。

 

そこには働く者の意思はなく、「言われたことだけすればいい」ということになり、そして問題が発生した時は「言われたことをした人の責任だ」という滅茶苦茶な理論なのですが、それが嫌ならその場を去るしかないと、それだけの話しなのかもしれませんが、このような状況は本当に残念なことだと思います。

 

確かに企業というのは、株式公開をしている上場企業もあれば、個人経営の企業もありますから小さければ小さいほど会社オーナーの意思を受けて仕事をしていくわけですから、それはそれで労働契約という性質上、仕方のない部分もあるかと思います。

 

ただ、私がいつも残念に思うのは、正社員であろうとパートの方であろうと、担当の教育者、指導者が至らず、時に人格者とは思えない者であるにもかかわらず、そのような教育者の下、仕事上の能力のことだけでなく人格をも否定されてその場を追われる姿を見ることで、これほど辛いこと、無力感を感じることはありません。

 

私はこれまで教育、指導の道を歩み続けていますので、それ故にこのような場面に遭遇することが多いのかそれは分かりませんが、本当に残念でならず、

 

私が思いますに、

 

自分の指導力の未熟さが自覚出来ない者は相手の理解度も把握できない、

 

人の気持ちが分からない者は人の痛みも分からない、

 

教育者たる者は知識や指導能力以前に、まずは人として、人格者でなければならない

 

そのように考えています。

 

 

皆さんの周りではどのような状況なのか私には分かりませんが、私たちは出会う「先生」次第で私達自身の道が大きく変わることがあります。

 

出会う先生次第で、「苦」が「楽」になることがあると思います。

先生次第で勉強が楽しくなり成績が上がったり、上司次第で苦しかった仕事が楽しくなって業績が上がったり。

 

ただ、残念ながら私たちは学校の先生も職場の上司も選ぶことが出来ません。

 

ですから、せめて私たちが将来、人に何かを教える立場になった時、

相手目線で物事を考え、人の痛みが分かる人間として時に相手に寄り添い、時に厳しく、そして励ましながら、出来れば「教えてあげる」ではなく「一緒に考えていこう」と、そう言えるような教育担当になりたいものです。

 

そして出来れば、その人の欠点ではなく、良いところ、得意なところを見つけて、それを本人が活かせるように導いていきたいものです。

 

もちろんそれを会社が許してくれるなら、という前提ですが・・

 

今の時期、新しい環境に身を置かれ大変な日々を送られている方も多いかと思います。

そしていろいろと辛いことも多いかとは思いますが、どのような方であっても「私たちの頑張りを見てくださる方は必ずいる」、私はそう信じ、前向きに日々の生活を送っています・・

 

 

本日も最後までお読みくださり有難うございました。

 

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人として大切なこと(スピリチュアルな世界に関心を持つ前にすべきこと)

 

最近、"hulu" で篠原涼子さんの「黄金の豚 -会計検査庁 特別調査課」という10年ほど前のドラマを何度も見ています。

 

私は篠原涼子さんのファンでして、昨年から何度か書いてきましたので、このブログを長くお読みい頂いている読者の皆様ならその理由をご存知だと思いますが、パソコンの大画面でドラマのストーリーそっちのけで我を忘れてその姿に見とれて日々心を癒やされています・・

  

それで本題なのですが、近年ネット上ではスピリチュアルを語る方々が増えていますが、いろいろと見たり聞いたりしていますと、中には「この方は本物で役目を背負って今こうして語られているのだろうな・・あの神様と関わりがあるのかな」など、そんなことを考えることがあります。

 

私が知る知識、経験と一致したことを語られる方々も時々見受けられ、特にそういった方々の話には注意深く耳を傾けるようにしています。

 

そういう方々に共通しているのは、決して上から目線で語ることなくこの物質世界で地に足をつけた生活をし、地道に努力を重ねて感謝を忘れることなく前向きに明るく生きる、それでいながら「決して目に見える世界がすべてではない」や、「魂の成長のため」など、いずれも基本的なことではあるのですがそれらを軸に伝えられようとしている気がします。

 

ただその反面、ネット上では霊的世界を、信じる者は救われる的に話をされたり、私が思いますに「神様仏様頼りで己の努力を忘れた楽な道にはそれなりに落とし穴があるもの」、そう考えていまして、そこに集まる方々を見ると心が痛むことがあります。

しかしながらそれもその方々の学びと考えれば、この世に必要のないものはない、と、そうも思わされます。

 

こちらのブログをお読み頂いている方々はどうか分かりませんが、私たち人間はどうしても表面的なものに目が行ってしまい、霊的な世界だけに興味を持ってしまうものではないでしょうか。

 

記事で生々しいスピリチュアルなことを書けば多くの方が興味を持って読みに来てくれますし、逆に「人の生き方」のような堅い話を書くとそれをしんどく思い、敬遠されるものだと思います。

 

「見えない世界があることを知ること」について私なりに思うことは「今生の死が訪れても魂は生き続けるということ」、それを理解するためでもあると考えていまして、それが理解でき信じることが出来れば物事の考え方や今の生活での行いも変わるでしょうし、「今生での経験や記憶はご霊界に帰っても残る」、それを知っていれば、学びは学校を卒業して終わりではなく、死ぬ間際まですべて次に繋がるものと、そう思えるものではないでしょうか。

ただ、私たちは記憶を消されて生まれてきますからそう簡単には行かないわけですが・・

 

そして私が知る限りですが、周りを見渡せば右も左も「供養をしてもらいたい」というご先祖様ばかり、そして同じく現世で周りを見渡せば右も左もご先祖供養の『く』の字も頭にない方ばかり。

 

そして数十年後には私たちも「我が子は供養してくれない」と、そういうご先祖様の仲間入りになってしまうのでしょうか・・

 

しかしこれも今生きている人間を責めるのも無理があるのかもしれません。

生まれてからそのような家庭教育を受けておらず、心は子供のまま身体だけ大人になってしまった現世の人間が、そのまま「子供が子供に教育してきた結果」なのかもしれません。

先日も記事に書きましたが、今の私たちは40歳、50歳になった大人でも「お彼岸」のことでさえよく知らない人が多く、古来からの習慣ですら世の中から消えつつあるのですから・・

 

私は最近思うのですが、

 

神社で神様に感謝を伝える前に、その前に感謝すべき人がいるのではないか、

 

そして更にお寺やお墓でご先祖様に感謝を伝える前に、その前に感謝すべき人がいるように思います。

 

私たちの周りにいる救けてくれている家族、友人、知人、「その方々は当たり前にそこにいるわけではない」、私はそう思いますし、まずはそれを知ることからではないでしょうか。

 

身の周りの人に感謝の気持ちを持てない人が、どうしてご先祖様、神仏様に感謝の気持ちを持つことが出来るでしょうか。

 

仮に身の回りに感謝できず、それを飛ばして神仏様に感謝を申し上げたとして、その神仏様はどのように思われるでしょうか。

 

何事も身近な存在ほど「当たり前」になり、その有り難さ、大切さを忘れてしまうものだと思います。

 

ある意味逆に、身近な現実の存在に感謝できるようになれば見えない存在にも感謝の気持ちが持てるようになるのかもしれませんね。

 

以前から書かせて頂いております通り、人間は自分で出来ることには限界があり、日々周りに支えられ救けられ生きているものだと思います。

 

そしてまた、私たちのために身を削って救けてくださる存在がいることを私たちは決して忘れてはならないと思います。その身を削って救けてくださる存在は現実世界で生きている人間であったり、そうでない見えない存在であったり、

 

それを忘れた時、私たちは人間としての最も大切なものを失うのかもしれませんね。

 

神様仏様、ご先祖様は勿論大切なのですが、その前に、身近にいてくれる「当たり前になってしまっているその見える存在に有難う」と、まずはそこから始めなければならないのではないでしょうか。そうすれば、そこから心のこもった本当の意味でのご先祖様供養につながっていくのだと思います。

 

そのようなことを考える今日この頃です。

 

 

本日も最後までお読みくださり有難うございました。

 

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私たちが人を救けるために出来ること

 

朝からネットで、アメリカンフットボールの元選手であり元コーチでも有名なある方のスピーチを聞いていたのですが、その中で、

 

「他人に自分の抱える問題を話さないこと」

 

という話がありました。

 

理由は、

 

「90%の人たちはあなた自身が抱える問題に関心を持っていない」

 

そして、

 

「残りの10%はあなた自身が抱える問題を聞いて喜ぶ人たちだからだ」

 

と、そのような話でした。

 

もちろんそれに続く話があるのですが、それはここでは置いておきまして、

 

私はそれを聞いていて今の生活で自分の周りを見渡した時、確かにその通りかもしれないと思い、決してそれが正しいという意味ではなく今の世の中の現状を表す言葉としては確かにその通りかもしれないと「残念ではありますが」そう感じました。

 

上記の「他人に自分の抱える問題を話さないこと」というその理由に私がひとつ付け加えるとしたら、

 

「あなたがそれを話すことで心配し、悲しむ人がいる」

 

私でしたらそれを付け加えます。

 

実際に子供でさえそのように考え、親に心配をかけまいと気遣う子も多く見られます。

 

私たち人間は心の優しい人ほど自分の気持ちや想いを自分の胸にしまい込み、苦しくなり、ついそれを「誰かに話して楽になりたい」と、そう思うものだと思います。

 

しかし時にそれを言うことで誰かに心配をかけ又は誰かが悲しむこともあり、「自分が苦しいからと言ってそれを口に出すのは自己満足に過ぎず、言わずに胸にしまっておこう、」と、そう考えることが多いのではないでしょうか。

 

私が思いますに人間というのはとかく「自分のことを話したい」と思うもので、

 

「自分のことを分かってもらいたい」

「聞いてもらいたい」

「話して楽になりたい」

 

そう思い、苦しい時、やるせない気持ちになった時は特に、「誰かに聞いてもらいたい」という気持ちになるものだと思います。

 

もし皆様の周りに話を親身になって聞いてくれる人がいるなら、その方を大切になさってください。

 

その方自身も同じく悩みや苦しみを抱えながらもそれを言わずに皆様の話に耳を傾けて聞いてくれているのかもしれません。

 

優しく思いやりのある人ほど胸にしまっているものがたくさんあり、苦しみを抱えているものだと思います。

 

そしてもし皆様の身近に大切な方がいらっしゃるなら、守りたい方がいらっしゃるなら、そして個別に話を聞ける環境にあるなら、是非、その方々の話を聞いてあげてください。

 

私たち人間が他の人に対して出来ることには限界があると思います。

能力、権力、金銭などの財力、時間、そして周りの環境、私たちは様々なものに制約されて出来ることも限られます。

 

ただ、そんな私たちでも「相手を気遣い、話を聞く」たったそれだけで誰もが人を救うことが出来ると私は考えています。

 

「話し上手は聞き上手」と言われますが、家族であったり友人であったり、会社の同僚や部下であったり、大切に思う方が身近にいらっしゃるなら直ぐにでも話を聞けますし、それ自体が幸せなことだと思います。

 

特に「心の余裕がない人」はひたすら自分の話をすることが多く、心理学的にもそのような人は、

 

「愚痴っぽい」

「不安症」

「自己愛が強い、自慢したがり」

「認められたいという気持ちが強い」

 

など、世間では様々なことが言われます。

 

家庭で旦那さんや奥さんの愚痴を聞かされたり、

 

会社で上司や先輩から説教や過去の自慢話、武勇伝などを延々と聞かされたり、(これについては立場の弱いものに対する、ある種いじめの場合もありますから気をつけなければなりませんが・・)

 

ネット上のやり取りでも「自分は優れている」ということを知らしめるために、ことあるごとにマウントを取ってきたり、

 

しかしそんな方々に対して広い心で嫌がらずに耳を傾けてくれる人がいるなら本当に私たちはそんな人を大切にしなければならないと思います。

 

自分が関わりを持つ人間関係の中で、

 

「話をしたそうだけど出来ない」

「聞いてくれる人がいなさそう」

「苦しそう、辛そう」

 

そんな人が周りにいないか、

もしいたら、自分はそれを聞ける存在になれないか、

 

一人でもそう思える人が増えれば、より生きやすい社会になるのではないでしょうか。

 

今の世の中、「我関せずで他人に無関心」「自分が良ければそれでよし」と、そのような人間が増えた世の中であり、個で成り立つ世の中でもあると思います。

 

私たちは大した能力や財力がなくても誰でも人を救ける事ができ、人の役に立つことが出来る、

そのようなことを思いながらこれを書かせて頂きました。

 

4月に入社してこれからのゴールデンウィークの連休にかけて、「こんなはずじゃなかった」と、これからは仕事などで悩む時期でもあります。

 

そんな時期、新入社員の方々に対してそれを察し、同じ目線で話を聞いてもらえる先輩方がいれば救われる方々も多いのかもしれませんね。

 

 

本日も最後までお読みくださり、有難うございました。

 

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物事がうまくいかない理由はすべて自分にある

 

日々の生活で自分の周りを見ていると、

 

「なぜこの人は苦しむのか」

 

「なぜこの人はうまく行かないのか」

 

最近は私なりになんとなくとその原因が見えることがあります。

 

(もちろん私が考えることがすべて正しいとは考えてはおりません)

 

その私なりに見えることを、これまでに相手に話そうとしてきたこともあるのですが、なかなかうまく伝わらず、

時に相手に敬遠され、そして時に逆恨みをされ、最近では「理解してもらおうと考えるのが間違いで、そもそもそれは無理なことなんだ」とさえ考えるようになりました。

 

相手の方からすれば、

「何故あなたにそんなことを言われなければならないのか」「あなたに私の何が分かるというのか」となりますし、そもそも「こちらの想いを分かって欲しい」という、私の考え自体が至らないものなのかもしれません。

 

私から見える勝手な視点ではあるのですが、そんな方々に共通するのは、相手や周りに対して感謝の気持ちが持てず、「自分は間違ってはいない、悪いのは周りであり自分は悪くない」との考えから、悪循環の中で同じ失敗を繰り返し続けているように思うことがよくあります。

 

私が思いますに、私たちは日々、周りに救けられながら生きています。家族、同僚、先輩、友人、それは人により様々だと思います。

 

そんな中、私たちのことを本当に想ってくれる方々というのは、自分が嫌われたり逆恨みされることを覚悟で私たちにとって耳の痛いことを言ってくれたり、救けの手を差し伸べてくれたりします。

 

それでも私たち人間というのは、相手の立場になって物事を考えることが出来ず、自分中心の視点で物事を考え、そういった周りの方々の想いを汲むことができず、味方になってくれる方々を自ら遠ざけてしまいます。

 

周りの純粋な「救けたい」「力になりたい」「守りたい」という想いが、

いつしかそれが受け手にとって「救けてもらえるのが当たり前」になり、感謝の気持が持てなかったり、または「救けてくれない」と、不満や筋違いの怒りの念を抱いたり、

人によっては他人の好意が逆に「余計なお世話」になり、更に「その人に悪くされた」と逆恨みの念を抱き、手を差し伸べようとする人の元に怒りを返してしまったり。

 

勿論、周りの方についても、その手の差し伸べ方に時に至らなさもあるかとは思います。

決して恩着せがましくならないように、上から目線にならないように配慮も必要だとは思いますが、仮にそうだとしても、私たち救けられた側、受け手はその相手の好意、気持ちを汲み取り、相手に感謝し、自らの努力と行動という形で返すべきだと私自身は考えています。

 

私たち人間というのは自分の力だけではどうにもならず「周りの救けを借りなければならないこと」が多々あると思います。また逆に「自分でどうにかしなければならないこと、自分にしか出来ないこと」もあると思います。

 

私たちは「その周りの救けは当たり前ではない」という事を知り、「最後は自分の努力、取り組み次第」ということを知る必要があるのではないでしょうか。

 

そして更にその「私たちを救けてくれる周りは、いつまでもそこに居てはくれない」、それを知る必要があるのではないでしょうか。

 

「言いにくいことを言ってくれて有難う」

「自分では気づかないことがあるので、言ってもらえて助かります」

「自分でも少し考えてみます」

 

そう言える自分でありたいと思います。

 

最後になりますが、

今日、書かせていただいたのは、目に見える世界のことだけですが、言うまでもなく私たちには「見えない救けの手」もあることを忘れてはならないと思います。

 

自分一人で頑張っているように思えてもそこには周りの救けがあってのことも多くある、それは見える世界見えない世界に関わらず、そのように思います。

 

そして私が思いますに、人生は長く生きることが重要なのではなく、「どう生きるかが重要」ではないでしょうか。

 

そのように考え、残された今生も、出来ることなら楽しいことも苦しいことも、どちらもご霊界に持ち帰る貴重な経験と考え、そして出来ることならなるべく「今この瞬間を笑顔で過ごしたい、」そのように思っています。

 

 

本日も最後までお読みくださり、有難うございました。

 

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「アニメ、うしおととら」- 教育と臨場空間について

 

以前お話しました通り、私にはこの世に生を受けることが出来なかった娘がいるのですが、

 

そのご霊界にいる娘がアニメのうしおととらがお気に入りのようで、私も Hulu で見ているのですが、90年代の漫画がアニメ化されたものなのですが、読者の皆様の方が私よりお詳しいのかもしれませんね、

 

主人公の少年「うしお」が妖怪「とら」と共に、妖怪退治の槍「獣の槍」を武器に最強最悪の大妖怪「白面の者」と戦う姿を描くアニメなのですが、ご霊界の方々からしてもこの漫画、アニメは非常によく描かれているようです。

 

ご霊界の娘が、

 

「パパ!、棒でね、とらが叩かれてね!」

 

「悪いやつをやっつける時はかっこいいんだよ!!」

 

・・・

 

 

と、この娘に見えるあちらの世界ではアニメと同じような光景で、神さまや仏さま方がやっつけているように見えるようで、このアニメがそれと重なるようです・・

 

そんな中、娘の時折寂しそうに見せる、「生まれたかった・・」という気持ちは、今私たちの「目の前にいる授かった子どもたちは当たり前にそこにいるのではない」と、改めてそう思わされます。

 

この娘はそのような気持ちを持ちながらもいつも家族のことを「ママは病気なの?」「お兄ちゃんは大丈夫なの?」と、一人ひとりの事を心配してくれていて、

ただ、そういう私も仕事の忙しさ、子育てに追われ、亡きこの娘の存在が頭の中から遠ざかっていた時期がありました。とても寂しい思いをさせてしまっていたようです・・

 

皆様にも私と同じ状況のご家庭がおありなら、今一度その子の存在を思い出してあげて頂きたく思います。

 

・・・

 

話は変わりますが、

 

これは私自身の教育現場での話なのですが、子供というのは同じ空間を共有すると警戒心が解かれ、受け入れてもらえやすくなります。

 

最近の専門用語では「臨場空間の共有」というのでしょうか、

 

大人の人向けに分かりやすく言うなら「同じ釜の飯を食う」という表現になるでしょうか、

 

同じ空間で苦楽・感動などを共にするとお互いの距離が縮まり親近感が生まれます。

 

授業の始まりに子どもたちが見ている漫画やアニメの話をすると、子どもたちは目を輝かせて話を聞いてくれ、キャハハ、キャハハ、と喜びながら私たち講師の話を聞いてくれます。

 

もちろん、授業にはメリハリが必要ですから、それらの少しのスパイスで子どもたちが目を輝かせたら、そこからその流れをうまく使い授業に引き込んでいくだけです。

 

勉強だけに限らず、やはり子どもというのは楽しくなければ学べませんし、その上で厳しさも必要でしょうし、そのバランスと見極めは指導する側の腕の見せどころではないでしょうか。

 

これから新学期が始まりますが、特に親子で勉強を教えるというのは本当に大変なことです。

 

親は自分の子供にはついついその期待から感情的に指導してしまうもので、そして子供は親に対する甘えや反抗心などもあり、なかなかお互いうまくいかず、第三者の私たち講師にご相談を頂くことが多々ありました。

 

本来は「なぜ本人が分からないのか、覚えられないのか」それを子供の目線で見ることが出来て、それを子供に分かる言葉で、互いに共感できればいいのですが、通常は指導技術を会得しているわけでもありませんから、なかなか出来ることではありませんね・・

 

ただ、それでも子供というのは本当に親をよく見ています。

 

感情的になりヒステリーを起こして怒りながら教えられると子供は萎縮します。

もし、ご自身のお子様に勉強を教えることがあるなら、出来るだけ感情的にならずに根気強く付き合ってあげてください。

 

そして、問題が解けたら、解けるのが当たり前じゃなく褒めてあげてください。

 

中学以上になってくると学年が上がるごとに学力的に親は教えられなくなってきますし、実際はやはり反抗期前の小学生を指導されるご両親が多いことと思います。

 

そういう私自身も親でありまして、経験上、本当にこの難しさを痛感しています。

 

私たち専門の講師でさえ自分の子供には教えられないことが多いです。それだけ家庭での勉学の教育、指導というのは難しいものなのだと思います。

 

・・・

 

最後に、

 

いくら優秀な学校を出ていて学力や知識があっても、逆にそれが原因で人に教えることが出来ないということがあります

 

学生時代成績不振で自身が苦労したからこそ、だからこそ、教え方が上手なご両親もいます

 

問題を解くことが出来るのと、それを教えることが出来ることは全く別の話、

 

お子様がいらっしゃるご家庭が多いかと思いますが、新学年最初が肝心、お子様たちが良いスタートを切られることを願っております。

 

 

最後までお読みくださり、有難うございました。

 

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相手の立場で考えること、それも愛・・

 

仕事をしていると私たちはつい、相手が出来ないことにも関わらず相手にそれを求めてしまいます。

 

相手にその能力がないのに仕事上必要だからとそれを求めたり、

たとえ能力があってもそれを活かす度量、心の余裕がないのにそれを求めたり、

 

そして無理なことを相手に求め、その結果、求める側も求められる側もお互いに苦しみ不幸になることが多々あります。

 

私が思いますに、それはひとえに求める側が相手の視点や相手の立場で物事を考えることが出来ておらず、自分視点や自分の物差しで相手を測り評価してしまうからではないでしょうか。

 

この春の時期は多くの職場で新しく入社した社員に対する研修が始まります。

 

「その歳でなぜこんなことを知らないの?」

 

「なぜこんな簡単なことが分からないの?」

 

「家庭でどんなしつけ教育を受けてきたの?」

 

そのように思うことなど日常茶飯事ではないでしょうか。

 

しかし、新人教育をする立場の人は単に決まったことを教えるだけでなく、そのような個々の相手の現状を知り、何が不足し、何を補わなければならないか、そして相手の良い所や得意分野、興味のあることなどを見極めるのもその仕事の一つだと私は考えています。

 

そして試用期間が設定されている雇用条件なら、その試用期間が終了するまでに適正の有無を判断し、正式採用をするかどうかの決断を下さなければなりません。

 

ただ、多くの教育担当者は新入社員の至らなさに不満を抱き、見下し、本来の職務を忘れてしまいがちになってしまうものではないでしょうか。

 

中には何度も同じことを言わなければ分からない者もいるでしょう、

 

又、思った通りの行動をしてくれない者もいるでしょう。

 

更に私たちの常識では考えられない非常識な行動をする者もいるでしょう。

 

・・・

 

一つ私が聞いた実話があります。

新入社員に対し、取引先にお中元としてビールを届けるように上司が指示を出したそうなのですが、

それに対し、新入社員はスーパーで6本入りのビールを数セット、バラで白い複数のビニール袋に分けて入れてそのまま取引先に届けたというのです。

 

その上司は、

「うちの会社に大恥をかかせて、最近の若い者はこんなことも分からないのか!」

 

「普通は24本入りのケースを包装紙で包み、会社名を書いた のし紙を付けて丁重にお届けするのが常識だろ!」

 

「アホなのか!!」

 

と・・・

 

・・・

 

しかし、私が思いますにこれは上司の責任であり、その新入社員の礼節に対する知識、経験、その時に当人が持ち合わせている社会的常識とされるものを理解しておらず、指示を出す際の当人への「確認不足」に他ならないと思います。

 

上司は指示の出し方や確認不足など自身の至らなさを責められるべきで、決して新入社員だけに責任を問うべきではないと考えています。

 

勿論、この新入社員は世間知らずであり、これで一つ学んだのでしょうが、その人はその失敗で潰れてしまうか、又はその失敗を学びに今後経験を重ね伸びていくか、教育担当の上司のその後の対応次第となってしまいます。

 

真っ白な世間知らずの新入社員も、そこから将来活躍してくれる存在になるのか、それとも、これがきっかけで自信をなくし消極的な指示待ち社員になるか、またはその会社を辞めてしまうか・・教育担当の力量とは本当に重要なものだと思い知らされます。

 

相手が自分の指示に対して意図しない行動を取ったなら、それは相手が悪いのではなく、指示を出した教育担当の認識不足、技量不足、

 

相手に伝わらないのは、

「理解できない相手が悪いのではなく、伝える側の伝え方が悪いから」、

 

適切な伝え方を知るには何よりも「相手の目線で見れること」、そしてそれは「愛」でもあり、教育担当者は「愛」を持ってこれからの研修に取り組んで行かなければならないと、常に私自身も自分に言い聞かせています。

 

勿論、この場合の「愛」は決して甘やかすことではなく、相手の立場を理解してそこから広い心を持って相手の無知を許し時に厳しく、そして共に学びながら」研修を通じて新人を育て、そして自分自身もそれによって成長させてもらうことだと私は考えています。

 

4月からの新生活、教育する側もされる側も初心を忘れず、相手を思いやる気持ちを持ちながら取り組んでいきたいものですね。

 

本日も最後までお読みくださり、有難うございました。

 

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